ツアー記録(6) 7月28日 盛岡公演 いわてアートサポートセンター 風のスタジオ

諸事情により、しばらく間があいてしまいました。三日連続の移動と本番を続けて行なった最終日、盛岡公演では、今までにないアクシデントが起こってしまいます。

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【松本利洋の手記】

朝、ホテルを出て秋田市文化創造館へ。これから盛岡に移動して乗り打ちなので、できる限り心身の負担を軽くしようと思い、手早く省エネを心がけて搬出、盛岡に向かう。今回のツアーでは、朋さんと奥本くんが出演者に無理させないよう、とてもよく気遣ってくださっていた。荷物を積み込むときなどは、毎度重いものを率先して持ってくださり、大変助かった。

3日連続乗り打ちは客観的に見るとかなり大変だったが、自分がこの時実際にどれくらい疲れていたかは、当時も今もよくわからないままだ。船劇場のことで忙しくなって以来、ただでさえいい加減な日常生活がさらに壊滅的になってしまっていたので、ツアー中の生活は厳しいスケジュールながら自分にとってはかえって健康的だったのかもしれない。実際、酒田で熱中症気味になった時以外は、体の調子は普段よりも良かったように思う。とはいえ、身体的にはある程度平気でも、意識しづらい精神的な疲れというものもあるので、盛岡に入る前も、なるべく無理をしないようにしようと考えていたことを覚えている。

昼頃着いた盛岡は、あくまで車の中からの印象でしかないが、想像を遥かに超えて都会的であった。どことなく、子供の頃の蒲田の景色に似ているような……まあ、本当に車の中からちょっと見ただけなのでわからない。車を停めてもらい、昼ごはんは盛岡名物のジャジャ麺をいただく。夏食べるのにとても良い、生姜のきいた、温かくも爽やかな麺であった。中盛りでも十分な量があり、あまり食欲がなかった状態で食べ切れるかちょっと不安に感じつつも、結局締めの卵スープまで頼んでしまう。

会場の風のスタジオは、商店街のアーケードからちょっとだけ外に出たところが入り口であった。いろんなお店の荷捌き場になっており、スタッフさんの手を借りながら慌ただしく搬入が始まる。

スタジオの入っているビルは結構古びていて、階段やトイレなどに、子供の頃、一時通っていた補習塾を思わせるような雰囲気を感じる。当時はこのような古い建物が苦手であったが、今となっては懐かしいし、むしろ古びつつある風景に愛着すら感じる。

一方、風のスタジオが入っている階は、さっぱりと綺麗な当世風にリフォームされていた。また、舞台裏の整理整頓の具合などもとても素晴らしく、運営されているアートサポートセンターの方々の神経が隅々まで行き届いている。劇場内は黒い壁で覆われ、音の響きも良さそうだ。奥行きや資材を隠す黒いカーテンが音を吸いすぎないかちょっと気になったが、結論から言えば杞憂で、ひたすらに声がよく届く良い空間であった。スタッフの方々も非常に協力的でとてもありがたかった。

仕込みが済んだのちのリハの最後、紗矢さんの声の調子がおかしくなる。即中断し、様子を見るが、その時はなんとか大丈夫そうな様子であったので、ひとまず安心して本番を待つ。本番までの腹ごしらえに、おにぎりやお茶を買ってきてもらっていただく。

本番開始。『月夜のけだもの』の序盤、また紗矢さんの声が出なくなる。完全に声がかれてしまい、ハイトーンが出なくなってしまった。お客さんも異変に気づいただろう。こっちは紗矢さんの声が完全に潰れたらどうしよう、ということばかりが気になり、ひとまず最後まで無事に終わることばかりを祈っていた。しかし、そんな危機的な状況でも、声のボリュームが下がっているようには聞こえず、さすがだなと感心もした。

なんとか終わった後の休憩。紗矢さんが落ち込んでいるか心配しながら楽屋に戻るが、意外と大丈夫そうであった。しかし、本人が大丈夫そうでも、この後ちゃんと公演を最後までできるか、かなり心配になる。このような声のトラブルが出てくると、演劇はやはり語りありき、演者ありきということが身に沁みてわかる。当たり前のことではあるが、なかなかここまで切実に実感する機会もないものだ。

休憩中、何か打ち合わせをしたことは覚えているのだが、肝心のことを相談し忘れてしまう。紗矢さんが歌を歌える状態にあるのか、確認するのを忘れていた! 気づいた時はすでに遅く、紗矢さんはスクリーンの向こう側。いざとなったら僕が歌うしかないのか……? と絶望的な気持ちで場面が進行していく。紗矢さんの語りの音量や表現力は十分あり、リハーサルから音量のセッティングを咄嗟に変える必要もなかったが、音高の幅がとても狭く、語尾を中心にいつもの力強い厳しさが若干失われており、歌の場面が近づくほどに気が気でなくなってくる。とうとう太郎が病気になり、町の巫女が登場の場面。町の巫女登場のセリフ「てんまきしん〜」うわ、凄まじいキャラクターだ……今日初めて聞いた人はこんなものかと思うかもしれないけど、普段の声を知っている人からしたらあまりの違いにギョッとするだろう。この時僕はなぜか吹き出しそうになった。意外と心に余裕があったのか? 祈るような気持ちで歌に突入すると、果たして、無事いつものような声が聞こえてきた。先ほどまでの語りではおそらく出ていなかったような高さの声が出ている。不思議なものだ。この後も無事に全ての歌を乗り切り、最後の一音まで、祈るような気持ちであった。なかなかこんなに祈りながら演奏することもない。遠藤さんがライフワークとしていた祈りの演劇を、こんな形で祈りながらやるとは思ってもみなかった。

公演後の気分は、完全にお通夜状態であった。お客さんが舞台裏を見ている時に何をやっていたか、あまり思い出せない。絶版になった『極楽金魚』の絵本の初版本まで手に入れたという横浜在住のSさんの娘さん(盛岡の大学に通っている)に話しかけていただいたことだけ覚えている。

今考えると、ここまで精神的にダメージを負ったのは、音量的にギリギリなところを狙いすぎたことの弊害に、この時気付いたからかもしれない。ここ数年、紗矢さんはどんどん声が出て通るようにもなってきたので、それに合わせて音もどんどん大きくなっていった。音楽を担当する身としては、スピーカーの音量が大きい方が繊細なニュアンスを出しやすいし、音と声の関係もより幅広く表現することができる。しかし、それが語り手本人の意識を超えて、身体的にどれくらいの負担になるかは、この時までわかっていなかったのである。

何も喋らないまま、粛々と撤収を始める……が、アートサポートセンターの理事長の計らいで、バラシを翌朝に延ばしていただいた。お礼とご挨拶をするのが精一杯な状態で風のスタジオを後にする。風のスタジオのスタッフの皆様には大変よくしていただいた。この場を借りて、改めて感謝申し上げます。

なお、この時は公演アンケートを見るのが怖すぎて全く読むことができなかったが、後日読んでみると、望外に好意的なご感想が多く、九死に一生を得た気持ちであった。

気を取り直して、せっかく盛岡に来たからジンギスカンを食べようという話になり、ギリギリ空いている店を探す。辿り着いたのは、たまたま昼間のジャジャ麺屋の近くのお店であった。空いた店内に入ると、店員は何故かとても不安そうにしていて、「量が多いと全部作れないかもしれないですよ」みたいなことを言っていたが、いざ作ってもらうと手早く全ての料理を出してくれた。一体なぜあんなに自信なさげだったのだろう。

この日泊まったホテルは、シックな小洒落た内装で、受付の初老の方はビシッと決まったタキシードみたいな格好をしていた。が、話し始めると、吹き出しそうになるくらいオドオドしていて、外見とのギャップに少し心が和んだ。4人のチェックインをさばくために出てきたもう一人のスタッフも、何か慣れてないというか、落ち着かない雰囲気の応待で笑いを誘う。この時の精神状態にとっては、少し救いになった。チェックインした時だっただろうか、紗矢さんから「これから一切声を出さないようにするんで、皆さんにそう伝えて」と言われた。明日は八戸に移動するが、本番はない。紗矢さんの喉が回復することを祈りつつ就寝する。

【吉岡紗矢の手記】

7月28日。8時40分チェックアウト。秋田市文化創造館へ向かい、9時から昨夜の上演のバラシ。10時頃盛岡へ出発する。車中小声で声を整え始めるが、ザラザラしてうまく鳴らない。だいぶ声が疲れている。音質に動揺せず呼吸の向きを整えてゆくとだんだん鳴って来る。義太夫節の太夫の潰したような声だ。これをゆっくり透明感のある響きのある声に整えて行かねばならない。

盛岡に着き昼ご飯はじゃじゃ麺。盛岡名物らしい。満州時代にジャージャー麺に出会った店主が、その記憶を元に創作したものとか。その本店に行った。お昼時、小さな店の前に人が並んでいる。並ぼうとすると前に私たちと同じ4人組が並んだ。かなり人気の店だ。やっと店内に入ると、カウンターとその後ろの3つほどのテーブルに所狭しと人々が肩を並べ丼ぶりに屈む姿。一番奥のテーブルに押し込まれ肩をすぼめて注文、机の上は調味料と生卵の籠が幅を利かせている。壁は有名人のサイン色紙やいろいろな貼り紙で覆い尽くされている。店全体が茶色く黄色味がかっている。かなり年季の入った店だ。このご時世、こんなに密集して食事をして大丈夫なものかと思わなくもない。私はそこまで空腹ではなかったので小盛り、奥本くん松本くんは中盛り、朋さんは大盛り。体の大きさに比例しているか。出てきたじゃじゃ麺は、中華のジャージャー麺よりふんわりしたうどんだ。肉味噌も中華のようにこってりしたものでない。生姜が効いている。うどんを食べ終えるとお湯を注いでもらい卵を割り入れスープにし、残った肉味噌をきれいにいただく。なかなか美味しい。そして驚くほど安かった。

14時、本日の会場「風のスタジオ」に入る。ビルの三階にある100席ほどの小劇場だ。劇場でない場所も面白いが、やはり劇場は安心感が違う。スタッフさんたちが出迎えてくれた。例のごとく搬入したら即座に仕込みにかかる。こう毎回繰り返しているとそれぞれの持ち場に着き、作業を進めるスピード感が違って来る。奥本くんと朋さんが設置してくれた嵩上げ用の平台の上にスクリーンを置き、ケコミ(台の側面)を黒い布で覆う。仕込みが少し早めに美しく仕上がったので、小さめの声で『月夜のけだもの』を一通り人形の手順をさらいながら言ってみる。がさがさしていた声がだんだんまとまって来て、ぎりぎり響きのある声になって来た。劇場の方が「いつも思うのですが、こういうもの(こういう影絵)があるともっと早く知っていたら、いろいろと違っていただろうと思うんです」と声をかけてくださりとても嬉しく思う。

リハーサルまであと10分くらいあり、楽屋で一息。ひどく疲れを感じる。連日別会場の上演三日目だ。今朝は秋田から盛岡に来る前にバラシ作業までした。この10分間寝るか迷う。横になるために敷く雑黒も楽屋に持って来ていたのだが。ひどく疲れている時に体を休眠状態にすると、せっかく朝から少しずつ整えて来た声が出なくなるような気がして寝ることが出来なかった。

リハーサルは毎回、登退場の確認の他、音楽の音量が大きくなる場面を抜き出し、声の大きさとのバランスを決めるという内容だ。『月夜のけだもの』が済み、『極楽金魚』のいくつかの場面を抜き出し、最後の抜きをしていた時のこと。「あ!おさきが金魚になった!」という台詞の金魚の「き」がひっくり返ったようなおかしな音になった。聞いているメンバーが少し笑い、私も少し笑った。ところがその後から完全に声が変な調子になった。無音になる箇所がある。つまり「声をやってしまった」ということ。20代の頃に発声が悪くて、稽古期間中にだんだん声を痛めて出なくなるということはあったが、こういう「突然出なくなる」ということは初めてで、これはまずいと思い即座にリハーサルを切り上げて楽屋で休息。少しかすれているが丁寧に歌うように鳴らして行けば大丈夫、例え声が変わっても「完全に出なくならなければ大丈夫。その役自身が風邪を引くということもある」と説経節政大夫さんが以前仰っていたではないか、そんな気持ちで、完全に出なくなることだけを避けて落ち着いて臨む覚悟をした。

本番、声は少しガサついているがほとんど回復し、それなりに良い声。全く無理をせずとも声がよく通る劇場空間を味わいながら進める。ところが最初の演目の3番目に登場する狐の場面。「その真っ黒な林の中から、狐が…」この狐の「き」の音(またしても「き」の音!)がおかしくなった。リハーサルの時と全く同じパターンだ。しかし今度は休めない。息だけ出て無音になってしまう瞬間があり、その使い方を避けともかくも語る。声の質は全体にどんどん悪くなって、ガラガラ枯れた声になって来た。「こういう声質の人が地元のスーパーのレジに居たな。あの人は慢性的に枯れた声ってことなのか」というようなことが一瞬頭をよぎりつつ、「出なくならないように」綱渡りのような緊張感で進めてゆく。「歌うように、歌の発声の使い方で。そして表現さえあれば伝わる。ニュアンス、ニュアンス…」と思いながら。

実際、オジサン声の太夫さんがその声で若い美女を語ったりもするのだ。しかしながら今思えば、一人語りでよかった。それぞれの役の対比を自分の中で作れるからだ。これが相手役がいたら、相手との対比でただのガラガラ声の老けたような声が際立つだけだ。しかしそもそも一人語りでなければこんなに声を酷使しなかったとも言える。どんどん幅が狭くなる音域と音質の中で、なんとか動物たちのやりとりを成立させ、一幕が終わった。

楽屋に戻ると松本くんは真っ青、じき奥本くんも「大丈夫ですか!」とやって来る。実に面目ない。私の声が無音になったら公演は進められない。しかしこういう時は本人の方が落ち着いているものかも知れない。今日はこの別人の声で語り切る、声さえ出ればなんとかなると腹を決め、後半戦に臨む。

『極楽金魚』の冒頭、お客さんの前で口上を語る時、内心「こんな聞き苦しい声で」と申し訳なく思う。スクリーン裏に入る。祈るような気持ちで始める。地の語りは歌うような語り口なので、悪声ながらそれなりにのびやかになる。町の巫女の出現の場面、ここはいつもかなり高い声で入っていた。しかし無理なので、咄嗟に低めの怪しい呪文風のニュアンスに切り替える。これはこれで面白い。そしてやはり歌の部分は声の調子が良い方に向く。使えるのはやはり歌方向の声の使い方だ。あとは表現。心を込めて丁寧に。おさきはかなりのふけ声。なるべく聞き苦しい音にならないように(と言ってもかなり難しいが)気を付け、実に幅の狭い限られた声質の中で、できる限りのニュアンスの表現を求め、山の巫女の激しい儀式を経て太郎は生還、おさきは炎に包まれ金魚となり、首なし馬と共に昇天。なんとか無事に終わった。

いつものように舞台裏の操作や人形を興味深く見てくださるお客さんに説明をする。お声掛けくださる方々に、なんとも申し訳ない気持ちで、なかなか晴れ晴れとお話しすることができない。なんだか腰が引けているような。本当はそれではいけない。この日はこの声の人格になり切って堂々としているべきだった。などと書いてみたが。そんなことができる人間になりたい。

いつも横浜公演にお越しいただき、特に『極楽金魚』の物語の大ファンでいらっしゃるSさんの娘さんが、盛岡の大学に進学中ということでお越しになり、お声掛けくださる。感激。とても可愛らしい娘さんだった。

劇場の方が、こちらの疲れ具合を慮ってくださり、バラシは翌日朝で構わないと言ってくださる。ありがたいことだ。明日は公演は無い。この日も翌日もだが、こんな声で上演してしまった申し訳なさと声を休める必要性から、私は劇場の方とあまりお話しをすることが出来なかった。素晴らしい環境と、惜しみないご協力に本当に今でも感謝の念で一杯だ。この場を借りて改めてお礼を申し上げたい。本当にありがとうございました。

夜は北ホテルというとても洒落たホテルに泊まった。フロントの方々が揃って「すみません」を連発して落ち着きのない感じが可笑しかったが、嫌な感じは全くなく、丁寧に接していただいた。

乗り打ち公演(劇場入り・仕込み・上演を一日で行うこと)の三日連続は大変だとは思っていたが、まさかこんな形で終えるとは思わなかった。一日休みを挟んで明後日は八戸で野外公演だ。不安と闘志で震えるような思い。なんとか少しでも声を回復せねば。そう思い終演後に無言宣言をする。なぜ「声をやってしまったか」の考察はツアーを終え横浜に帰り、船劇場の上演を迎える頃まで続く。

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