「さらばアメリカ!」の歴史①〜上演不可、そしてお蔵入り〜

遠藤が『アメリカ!』を書いたのは1975年頃。
(ちなみに題名を『さらばアメリカ!』に変えたのは今年に入ってから)
度重なる長期の海外公演で疲れ切り、人間関係はズタズタ、もう芝居なんかやめてしまおうと、死にたいほどのヤケクソの気分だった頃に書いたという。
直前までの海外公演記録は下記の通り。
1971年
『人と人形による劇・極楽金魚』脚本・演出/遠藤啄郎、主催/劇団「青年座」
『ゴリラ・ゴリラ』脚本・演出/遠藤啄郎、主催/結城人形座
(フランス・ナンシー国際演劇祭二作品同時参加)
1974年
新演出『人と人形による劇・極楽金魚』『夕やけぐるみの歌』
脚本・演出/遠藤啄郎、主催/劇団「太陽の手」
(フランス・ナンシー国際演劇祭二作品同時参加、フランス、スイス、イタリア巡演、パリ・プチ・オルセイ劇場1ヶ月公演/全3ヶ月半の旅)
1974年
『般若心経』
 構成/太田省吾・遠藤啄郎、演出/笈田勝弘・遠藤啄郎、主催/ヨシアンドカンパニー
(バンクーバー、モントリオール、ニューヨーク、アムステルダム、パリ巡演/全2ヶ月半の旅)

(1974年頃の遠藤啄郎)

この頃を振り返って遠藤は言う「海外公演は長くてせいぜい1ヶ月が限度。2ヶ月以上も一緒に旅していると人間関係は難しくなる」「ま、俺が悪かったんだけど」と。
そして疲弊し切った心で帰国した後、これを最後に演劇をやめちまおうと思って書いたのが『アメリカ!』だった。
ニューヨークの摩天楼に見た不吉なイメージ、敗戦直後のヤケクソな時代の記憶が炸裂し、ごく短期間で一気に書き上げた。

(1974年『般若心経』ツアー中に遠藤がニューヨークで撮影した今はなき貿易センタービル。この景色を見て遠藤は「窓はギロチン、首を切り落とす窓」と思ったという。このフレーズは『アメリカ!』の中で主人公が苦痛と歓喜の中で叫ぶことになる)

書き上げ早速某劇団に売り込むも「上演できない」と断られる。
仕方ないので別の某劇団に売り込むも、こちらも「上演できない」と断って来た。
そこで腹立ち紛れに押入れに放り込んでしまい、それから『アメリカ!』は25年間の眠りにつく。
何故どこも断って来たのか、今ならわかる気がすると遠藤は言う。
当時は戦後30年、まだまだ戦争の記憶は生々しい時代。安保闘争、全共闘運動を経て、演劇は今よりもずっと左翼思想と深く結びついていた。
そんな時代にあって『アメリカ!』は不遜な内容と受け止められたかもしれないと。
今なら戦争を扱った喜劇として抵抗なく上演出来るが、当時は喜劇にすること自体難しかったのではないかと。
作者の遠藤も忘れかけていた不遇な作品『アメリカ!』は、その後ある企画の中で突然遠藤の脳裏に浮かび、25年の時を経てようやく日の目を見ることとなる…(つづく)
ちなみににその後遠藤は演劇をやめなかった。
仮面のデザイン・製作も本格的に始め、6年後の1981年に横浜ボートシアターが旗揚げされる。
めでたし、めでたし!
本文:吉岡紗矢
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