
先日無事に終えたアヴィニョン視察のレポートを、これから全9回シリーズ予定で順次公開いたします。本視察の実現は、多くの方々のご協力なしにはなし得ないものでした。また、今回の渡航に先立ち、6月19日のイベント来場者及び劇団の協力者・支援者の方々から寄付をいただきました。
継続的に劇団を応援してくださっている皆様、本視察の実現を支援してくださった皆様に、改めて厚く御礼申し上げます。
なお、このレポートは横浜ボートシアターの三人(吉岡紗矢、奥本聡、松本利洋)がそれぞれに書いたものから構成しています。それぞれの視点の違いをお楽しみください。
視察の経緯
昨年3月にふらりと船劇場を訪れたフランスの仮面作家クロード・ロシュさんとのご縁が繋がり、フランスのアビニョン演劇祭に視察に出かけることとなった。参加メンバーは劇団の奥本、松本、吉岡の3人と、劇団の海外展開プロジェクトへの絶大な協力者で通訳の佐野友香さん、小栗にも出演されている俳優・演出家の丹下一さんの5人。
アビニョン視察までの経緯は次の通りだった。昨年3月にフランスの仮面作家クロード・ロシュさんが突然船劇場を訪ねていらした。なんでもアフリカ某国の大使館の人から横浜ボートシアターの情報を得たとか。船で交流をした後、西日本を回られて、6月に再び船劇場を来訪された際には仮面作りのワークショップをしていただいた。クロードさんの教えてくださった手法は天然素材を相手に子供心が開放され、生き生きした力強さが発揮される手法だった。

その後年末に「アビニョン演劇祭でボートシアターが公演できないか関係者にあたってみたが、すぐには難しい。2026年に視察に来てはどうか」とのご連絡をいただいた。そのように動いてくださった訳は、私たちの知らないところで、佐野さんが(佐野さんと劇団は10年来のお付き合い)クロードさんへ猛烈にボートシアターを売り込んでくださっていたからだった。
私たちは2026年視察について最初はあまり積極的ではなかったが、年明けに「行ってみようか」などと話し始めた。しかし厳密に考えると、何のために行くのか、そしてどのような作戦で行けばいいのかなど、まだ見えていないこと、そして手に負えないことなどがだんだんわかってきて、まだ今は行くのは早すぎると言う結論を出した。
そのことを船劇場を支援してくださっているプロデューサーの古澤敏文さんに「やっぱり行くのをやめました」と話したところ、「行ってこい。行かなければ君たちに未来はない」という強い叱咤激励があり、もう一度考え直し、佐野さんに相談したところ「行きましょう!私は体当たりして後悔した事は一度もありません!」と言われ、また丹下さんからは「行きましょう。すぐにもチケットを取りたいからいつ行くか教えて!」と言われ、だんだん私たちも「皆さん(特に佐野さん)の協力があるなら行けるかもしれない」という気持ちになった。
そして『小栗』を2028年にヨーロッパで行うという目標に向かって、今から下準備をするという目的で、行くことを決心した。佐野さんがフランス語であちらのプロデューサーや劇場などに片っ端からご連絡をしてくださり、滞在の日程も決まり、ぼちぼち会えそうな人々も見えてきた。加えて演劇祭の一環でクロードさんたちが行う仮面作家協会のイベントの中で、デモンストレーションもさせていただけることになった(6月19日にはフランス視察を見据えての公開イベントを船劇場で行い、現地でのデモンストレーションを関係者に見てもらい、創作仲間でルコック演劇学校卒業生の近藤春菜さんのご協力も得ながら伝え方を練った)。
更に驚くべきことには、滞在中に太陽劇団の演出家アリアーヌ・ムヌーシュキン氏にお会いできることになった。それはひとえに佐野さんの猪突猛進力が切り拓いた道だった。
劇団の決意
30年ぶりの記録的円安と言われるこの時期に、全員自費で行く決意をしたその心は、劇団に関して言えば、挑戦し続けなければ劇団に未来はないという切実なもので、「何がどうなるかわからないがとにかく行けるところまで行く」という、遠藤さん亡き後の基本姿勢のこれまた遂行に他ならない。とは言え個人的には15年ぶりの海外、初めての西ヨーロッパ、言葉は全くおぼつかず、何よりもこの私が「ディレクターです」と言ってフランスの演劇人の前で喋る機会も設けられる。これは一体何の間違いかという心境でしかない。ヨーロッパではロシアとウクライナ、イランとアメリカが依然戦争中であり、ちょうど記録的な熱波に襲われパリの気温は40度、ヨーロッパ各地でたくさんの人々が亡くなっているニュースも入って来る。不安を煽られるフランスのトイレ事情、犯罪情報も経験者経由で耳に入って来る。「楽しみですね」と声をかけられても、「楽しみなのか?」と自問してしてしまう。果てはフランスから帰った後の自分が全く想像できない。帰って来ることすら想像できないという有様だった。もう本当に「なるようになる」と腹を決めて行くしかなかった。やたらに入念な荷造りを着々と進め、7月9日の晩に中国国際航空で旅立った。
2026年7月9日
北京に先乗りし、9時間待ち

令和8年7月9日12:40 羽田空港第三ターミナルのテラスに強い日差しが降っていた。
衣裳や楽器、仮面、私物の荷物を詰め込んだ新品の黒いトランクはもう預けてある。
一眼レフをぶら下げて、腹ごなしも兼ねて少し空港内を散策していた。プラネタリウムも面白そうだったけれども、さすがにそこまでの時間は無いということで、外の風景を眺めていたのだ。子供たちがはしゃいでいる。眩しそうに日陰へ移る大人の姿もある。
僕はチケットを確認しながら、自分が乗る飛行機を見てみたいと思った。少し見回してChina Airの飛行機を見つけた。あれに乗るのか……。少し不安があったが、やっぱりワクワクしていた。最後に行ったのは北京、そして今回もまずは北京だ。どうなっているのか。
そろそろ時間だ。僕は搭乗口へ向かった。
搭乗口へ行ってしまえば、あっさりとしたものだった。何事もなく飛行機に乗り込むと、準備してきた気圧対策の耳栓とサンダル、このために買った本をカバンから取り出した。でも、まだ本は開かない。離陸までは何とも言えないそわそわした気持ちを楽しむことに決めていた。
飛び立ってしばらくすると機内食が出た。豚肉か鶏肉と言われる。豚肉を選ぶ。豚丼だ。中華航空なんだけれども、日本食と言うか、中華風日本食。こんなところにも外から日本を観る視点がある。中華航空を選んで良かったと感じた。ちょうど読んでいた本も古代日本と東アジアの関係についての本だ。こういう時にしか味わえない妙なリアリティがあった。
やがて、北京に着く。デカい。

トランジットに際して男性がだるそうに航空券にスタンプを押していた。女性のガタイも良くチェックもやや厳しさを感じるのはさすが中国と言ったところか。
降りてしまうとただ出発のターミナルがあるだけだ。現在時刻は午後5時過ぎ、出発は7月10日午前2時、紗矢さん、松本くんとは午前0時頃にここで落ち合う。eSIMも問題なく動く。少し街へ降りようかとも思ったが、やめておくことにした。これからツアーの本番なので、想定外のことは少なくしたいと思ったからだ。リスク回避型というべきか、怠けているというべきか……。
ロビーの中では体を動かしたり、休んだり、メモをとったり、お土産を見たり……。そして、サンダルも探していた。間の抜けたことに、機内にサンダルを忘れてしまったのだ。100均の安物だが、忘れたと言う事実と、これからフランスまでの長い空路に対する不安からテンションが下がる。代わりにスリッパか何かないだろうかと空港内を見たのだが、見当たらなかった。これも、北京市内へ降りなかった理由である。
飛行機に乗っている途中、旅行へ行って、海外へ出て良かったと思った。いきなり、自分の視点が国際的になったように感じたのだ。不思議だ。アジアの中の日本、そして世界へ行くのだ。しまった。どこかで、買えないだろうか? スリッパでも良いのだが⋯⋯
空港で一人待っているだけではあるが、北京経由は正解だったように感じる。自分にはフランスよりは北京の方がなじみもある。フランスと言う遠いところへ行く前に心が外国に慣れる事もできるし、相対化できる。僕はまだアジアにいるのだ。
北京の空港のトイレは思ったよりもきれいで安心する。
そうこうしているうちに、23時。北京は雨である。前回の北京の記憶は雪。
そして、パリはきっと晴れだろう。
もうすぐ二人と合流することになる。そうしたら、フランス行きだ。パリは晴れだろう。
大量の荷物に睡眠不足、行く前から疲弊
7月9日未明、現地の関係者に渡すDVDを焼いていなかったことに気づき、Toast(DVDのライティングアプリ)の入っている昔のPCで焼き始めるも、途中でドライブがエラーを起こして作業中断。結局そのPCでの作業を諦め、新しいPCにToastを入れ、なんとか2枚組のDVDを1組完成させる。
トランクの都合上、持っていく楽器を変更せざるを得なくなり、起床後すぐに船劇場へ。楽器を回収した後、買いきれていなかった旅用の備品を横浜駅周辺で購入し、家に戻ってパッキングしていると、あっという間に羽田に行く時間。
今回は楽器を詰め込んだ22kgのスーツケースと、主に私物の入った16kgのスーツケースの2台+手荷物二つ(ここにも機内持ち込みができないバッテリー内蔵機材等を詰め込んで合計10kgくらいはありそう)という構成。
これは海外公演を見据えて、ギリギリまで荷物を増やしたらどうなるかという実験。家を出てスーツケースを転がし始めた瞬間、重さに圧倒され、荷物を多くし過ぎたことを早くも後悔し始める。(ただ、この荷物の運び方を試行錯誤するのは、体の使い方の訓練にはなった)
16時30分、羽田空港第3ターミナルに到着。奥本くんはひと足さきに北京へと出発しており、ここでの合流は紗矢さんとのみ。空港のタリーズで、スーツケース用のベルトの番号や、eSIMの設定をする。今回、北京経由なので、中国でもいつも使っている手段で連絡が取れるよう、フランス用と中国用で二つeSIMを購入したのだが、紗矢さんのeSIM設定で何かをミスってしまい、プランを二度買いさせてしまった。大変申し訳ない。
チェックイン時刻に店を出てカウンターに行くと、すでに長蛇の列ができている。カウンターの手前にパスポートや予約番号でチェックインできそうな端末が置いてあり、これで済むなら楽じゃん、と試してみるも、「該当する予約がありません」と出てきて紗矢さんともども、めちゃくちゃ焦る。パスポート・予約番号・その他色々な照会方法を試したが全部ダメ。近くにいる職員に聞いたら、長い列の方を指差し「ああ、あっちでもできますよ」とこともなげに言われてしまった。不安になりつつも、列に並んで手続きしたら、全く問題なく手続きが完了し、荷物も預けることができた。
しかし、その時チケットを渡してくれた職員の日本語がほとんど聞き取れず、唯一ちゃんと聞き取れた「20時30分からです」の一言がその後の危機の元凶となった。飛行機経験の浅さと、難所を乗り越えた気の緩みで油断しまくっていたのである。
あわや飛行機に搭乗し損ねる吉岡と松本

出発前の腹ごしらえでターミナルの5階にあるカフェで軽くご飯を食べる。その後、発着場を展望できる屋外に出て、とうとう来てしまったのだという感慨と、北京でのトランジット、パリ到着後のリヨン駅までの道のり、アヴィニョンで何が待っているのかなど、期待よりも不安が大きくのしかかる状態で、搭乗時間を待つ。
20時30分、さて、そろそろ行くかとのんびりトイレに行って、紗矢さんが出てくるのを待っていると、いきなり館内アナウンスで名指しされた。この時刻までに搭乗ゲートまで行かなければならなかったのだ。運が悪いことに、その時いた5階から搭乗ゲートは空港の端から端へと移動するような長距離だった。大急ぎで早歩きしている間にも、「ただいま〇〇の最終案内をしております」というアナウンスが何回も流れてしまう。搭乗口近くでは職員の人たちが丁寧にお辞儀してくれていたが、内心「何やってんだお前ら」と思っていたに違いない。こんな間抜けな客に対しても、嫌な顔をおくびにも出さず接客する彼らのプロ意識はすごい。
なんとか着席すると、二つあるうちの手荷物の一つを収納棚に載せる暇もなく、足元に押し込む。最後の乗客であった僕たちを待ちかねていたかのように飛行機は直ちに滑り出し、夜の滑走路でスピードをぐんぐんと増していく。暗い滑走路に点々と光るライトを眺めながら、轟音の高まりと、席へ押し付けられる力が強まっていく中、ついに離陸。凄まじい加速で空を駆け上がり、すぐさま地面ははるか下方へと遠ざかる。どこまでも一面に広がる東京の光は、非現実的だった。
パスポートの更新時期を逸した私と松本くんは、フランス往路が途中まで奥本くんとは別便になってしまった。羽田空港では久々の海外旅行のため様子がわからず、いくつかのアクシデントがあり、危うく飛行機に乗り遅れそうになったが、無事、乗った途端に出発した。
離陸時の轟音と圧迫は、抗し難い運命というものを象徴しているように感じた。大きく重い金属に日常ごと包まれて飛んでいくことは、今さらに、微塵も抗えないことだ。ゆっくり進行する運命も、実はこんな顔をしているのではないかと、恐怖に腹を据えて耐えた。

今回搭乗した中国国際航空の機内食は、サンドイッチ、ブルガリアヨーグルトのブルーベリー味、どら焼き。
本州を飛び越えて日本海に入ると、ひたすら真っ暗。しばらく何とも言えない時間が続き、轟音や席の微妙な狭さに疲れが出て来た頃、ユーラシア大陸に差し掛かる。微かな灯りから始まり、徐々に煌々と光る中国の大地。うねりながら視界の果てまで続いている大きな道路が断続的に並んでいる。太い道路の一本線が強烈な光を放つのとは対照的に、その周囲の灯りは控えめだった。


北京国際空港で合流する3人、そしてパリへ
深夜12時、北京国際空港に到着。機内には二胡や民族楽器などを使った「涙そうそう」っぽいメロディの到着曲が流れる。こういう曲がかかると強制的にエンディングみたいな雰囲気になる(これから旅の始まりなのに……)。
機内モードを解除すると、eSIMは自動的に中国仕様へと変わり一安心。ターミナル内にはもう日本語は存在せず、トランスファーの手続きを行う場所に向かうのにすら、少し不安になる。深夜の不機嫌な空港職員は時折眠い目を擦っていたが、航空チケットにハンコを押す時はやけに素早く、「ダンダン!」と力一杯デカい音を立てていた。眠気を我慢しながら一生懸命やっていたのだと思えば、可愛げがあると言えばある。
予想していた通り荷物検査は入念で、ベルトコンベアで運ばれてきた手荷物の中はガサガサやられた形跡があった。
それはまだ良かったが、データ保存&バックアップ用のSSDと充電バッテリーを一緒に入れていたケースの中身を荒らされていて相当焦った。空港職員が気にするバッテリー類だけ、わかりやすく外に出しておいたのに……

奥本くんと合流し、短いトランジットながらターミナル内を案内してもらう。中国庭園みたいな一角があり、そこには王羲之から時代をどんどん遡るような形で「書」の歴史が展示されていた。故宮をイメージしたデジタル展示スペースでは、タッチパネル式の画面で、名画に色塗りができるようだった。
夜中の北京国際空港は人が思ったより少なく、やや閑散とした印象(奥本くんによれば、昼間もそこまで人はいなかったらしい)。出発時の羽田はそこそこ人で混み合っていたので、なおさら少なく感じたのかもしれない。
北京まで4時間。着くと奥本くんが出迎えてくれた。なんと奥本くんのトランジットは9時間(私たちは1時間半)。奥本くんは搭乗口の付近で時間つぶしに武術の練習をしたり、空港内を隈なく歩き回り詳しくなったようで、着いた私たちを空港内に設置されたテーマパーク(中国風庭園)などへ案内してくれた。北京からパリのシャルル・ドゴール空港まで10時間。慣れない、眠れない、長い夜となる。
再び飛行機に搭乗。ここからは10時間のフライトである。パリ行きの便ということもあってか、乗客にはヨーロッパ系と思しき人が多い。機内食を食べた後は飛行機が暗くなるのだが、飛行中ずっと流れる轟音や微かな振動、そして座席によって限定される姿勢の不自由さによって全然うまく寝られない。時折気絶するような睡眠を繰り返しながら、パリが近づく。
飛行機は時間の経過に逆らうように飛び、夜中の12時出発からだいぶ時間が経っていても、夜明けの薄明がやけに長く続いていた。高高度から映った夜明けの空は非常に美しい。フランスの上空に近づくと、薄黄色の畑と緑が一面に広がっているのが見えた。


