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音楽制作日記 第1回 《横浜ボートシアターの舞台》と《音楽》についての基礎的考察

こんにちは。横浜ボートシアターで音楽を担当している松本利洋(まつもととしひろ)と申します。この度、劇団のWEBページでコラムを書かせていただくことになりました。どれだけ続くかわかりませんが、以後よろしくお願い致します。

実はこの原稿は何度かの失敗の後、思い切ってテーマをはっきり決めずに書き始めました。すると、書いているうちに横浜ボートシアターにおける音楽のあり方を考える方向に筆が進み、「これからまた作品につける音について考えなければいけないところだったし、とにかく何でもいいから音楽のことを考えるのは日課にすべきだし、ちょうどいいや」と思ったので、これからしばらく「音楽制作日記」というタイトルで書かせていただくことにします。もちろんこれから来る『恋に狂ひて』のツアーの音楽の話題も書きますし、ワークショップのことなども書くことになるでしょう。

※このコラムは主に松本個人の考え、思い込みで書かれており、横浜ボートシアターの総意とは関係ありません。一方で、松本の考えの多くは、横浜ボートシアターに影響された上で成り立っているものであることも確かです。

※アイキャッチ写真:古屋均

現代における「普通の芝居」では、語り手、役者。楽師等々の舞台上の存在は各々の次元の中に収まって役割をこなすことが多いと思われますが、横浜ボートシアターの舞台では、舞台上の人間たちが取るポジションの境目が曖昧であることが多いようです。

役者は瞬時に背景を物語るコロスへと変化し、またある時はパーカッションを演奏する楽師へと変化する……「総合芸術たる演劇はかくあるべし!」と言ってしまいたくなるほど、舞台上の人間は一つの演目内で様々な役割をこなします。

王サルヨの婚礼

(奥舞台で演奏する楽師たち……もちろん違う場面では仮面をつけた役者として舞台前方に立つこともある 「王サルヨの婚礼」より)

『恋に狂ひて』でも、役者が楽師として楽器を扱うことこそほとんどありませんが、役とコロス=語り手の次元を縦横無尽に行き来する様は見事の一言です。

僕はそうしたマルチな素養が求められるボートシアターの中で、純粋に音楽だけを担当しているため、少し異色な存在と言えるかもしれません(舞台以外のことでは色々とお手伝いさせていただいてはいるので、そういう意味ではマルチと言えなくもないのかなあ……?)。

しかし、楽師であろうとも、やはり役者と同次元に立って表現するべしという基本スタンスがボートシアターにはあるように思います。写真集『YBT 横浜ボートシアターの世界』に収められた劇評などを読むと、劇団代表作『小栗判官・照手姫』『若きアビマニュの死』などは役者が瞬時に次元を変え、楽師として演奏するようなダイナミズムも一つの売りとなっていたようです。最近の芝居では役者が演奏に参加することが少ないため、見た目には分かりづらいですが、『セロ弾きのゴーシュ』では楽師の僕が役者と同じスペースで演奏したりもしました。

そういった意味……つまり、舞台に立つ人間が所属する次元がコロコロ変わるという点で、ボートシアターの芝居は、近代的な合理化、すなわち分業の延長上にある「生演奏付きの芝居」とは一線を画しているように思います。

ところで、ボートの芝居における音楽の志向が最も表れやすいのは、場面の情景を表現するためにつけられた音です。

例えば、ある場面で誰かが亡くなるとします。そこで音を要求された場合、ただ悲しいメロディーを演奏するだけではなく、そのキャラクターの死の背後にある運命の厳しさを多少無骨な音で表現したりするようなことが、ボートシアターの芝居ではよくあります。

これがつまりどういうことかというと、キャラクターの心情の伝達を円滑にするだけのような音は、ボートシアターにおいてはあまり求められないということでもあります。さらに別の言い方をすると、キャラクターの心情と丸かぶりするような音は、ボートシアターにおいてはあまり好まれないということです。そうしたスタイルは、鑑賞する人によってはドライに感じるかもしれません。しかし、叙事詩的表現、語り的表現が大きな特徴である横浜ボートシアターの演劇においては、キャラクターの感情にではなく、作品の世界観や文体に寄り添った音楽を作らねばならない、と考えております。これを簡単に言ってしまえば、役者同様、音楽も語ることが求められているということなのかもしれません。

以上のようにボートシアターでやっていることを自分なりに改めて振り返ってみると、個人的には大いに反省することしきりですが、とにかく、『恋に狂ひて』の関西・岡山・四国ツアーではぜひとも4月の上演時よりもさらに研ぎ澄まされた音楽で作品世界の構築に貢献したいところです。

ちなみに、『恋に狂ひて』や『土神と狐』などで説経節政大夫さんがエレキ三味線を入れる場合は、かなり叙情性が強くなる傾向があるように思います。こんな時には、僕は特にドライなやり方を選択することが多くなってしまいますが、これはバランスの問題であり、必ずしも僕が冷たい性格の人間であることを意味するわけではありません(笑)

長々と書いた割には、ほとんど音楽には触れられずじまいでした。しかし、音楽以前に、ボート全体としてやっていることをまずははっきりさせたかったので、どうかご容赦ください。

次回は、上で書いたような「ドライな音楽」と、いわゆる「SE(効果音、環境音)」の違いについて考えてみるつもりです(もっと他に面白いトピックを見つけたら何もなかったかのごとくあっさりと変更しますので悪しからず)。

それでは、次回もよろしくお願い致します。

松本利洋

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